通りとアートの距離最短≒80cm 十和田市現代美術館
確かに屋外展示の彫刻などを眺めながら、長ーいアプローチを進んでエントランスにたどりつく大きな美術館の趣もよいと思います。 が、僕は近いほうが好きです。特に現代アートは、子どもたちも含め、いろんな年代の人が、いろんな見方、感じ方をしても許されそうな安心感や楽しさがあります。なので街の通りからの距離は短いほうが、その「いろんな」の可能性をさらに広げることができるのかなと。 建物が中身の魅力を引き出しているわかりやすい事例です。
では、住宅においてはどうでしょうか。建物が住まい手さんの暮らしのなかの魅力的な部分をを引き出すことを目指せばよいのかな。
壁があって、屋根があって。その雨風をしのぐ箱の中身を、もしくは外周りを、いかに飾りたてるか。これが普通、家づくりをするときに抱く期待感であり、主たる目的であると思います。しかし、最近気になるのは、敷地に建物を置いたがために創られる(出来てしまう)スペースの存在。それは、中庭であったり路地のようなアプローチであったり。それらのスペースを創るのには、さほど建築費はかからないけど、それは確実に人の手に因って生み出された空気感、と言おうか雰囲気と言うか。
ドーナツの真ん中の穴は、何もないけど、「ドーナツの穴」という存在であるように。
未来のC.ロナウドを生み出すためには芝生の庭かー。
愛犬と子供が駆ける中庭の芝とか。となりの芝は青い。とか。なにかと憧れの芝生の庭ですが。敷き込みは案外安価で早いです。どっかで育ててた芝をパネル状にはぎとってきて、並べて根がつくのを待つ。ただし、あとの管理がね~。ってよく言われてます。そこで何事も、実験実験。いわゆる張り芝方式ではなく、ポット式。すぐには一面グリーンにはならないけど、雑草や衝撃に強い種の芝を苗から育て、点々と植え付け、這い広がるのを待つ。産み育てる的なプロセスが愛着を生み出す?また、結果報告します。
机の前でデザインに集中することが王道であると思ってました。できあがったもののクオリティとは、いかに斬新でカッコイイものであるか。そんな風に考えてた時期もありました。今でも心のどこかでそうありたいという願望もなくはない。
でも、自分が持ってるアビリティ(能力)は、できる限りクライアントのために発揮するべきかなと、最近は迷いもなくバンを借りて某北欧発祥ノックダウン家具を買い付けに奔走。体を使ってます。5年前は香港に空トランク持って、おととしまでは船橋、去年から神戸と近くはなりましたけど。
実際、頭ばっかり使ってるとヘンになるし、心と体のバランスがとれて意外といいかも。
建物のプロポーションや素材のバランスを考えてると、ふと木の存在や表情に助けを求めたくなります。「このしょうもないデザインをなんとかしてくれませんか」と。
「木」と単にいっても、庭に植える「樹木」と、材料として使う「木材」があります。「樹木」は生きてるので、お水や少しの手入れでいいのですが、「木材」はほんとに悩みます。外部の木材は、変色し、さらに朽ちていきます。事実なのですが、住まい手にとっては、「そんなもんです。」とは受け入れ難いのではないでしょうか。
私も、外部に木材を使うこともあります。ただ、朽ち果ててでもそこに木の存在が必要な理由がある時だけですが。
僕がデザイナーで、クライアントで、大工さんなら、別に図面とか描かなくてもいいんですけど。
自分で好きなように考えて、自分で建てて。てっとり早いとは思うが、たぶんうまくいかない。
自分とは違う人の意見を聞いて、自分とは違う人に伝えようとする作業の中で、合理性を検証してるんだと思う。考えるのはクリエイティブで楽しい。図面描くのはしんどい。確かにそうなんだけど、人の話を受け入れ、人に伝える表現ができてこそ、実現するのが建築なのでしょう。描いて書いて、また、描いて書いてです。

